2012年12月16日日曜日

俺の名は勘九郎(100)


誰かが降りたばかりなのだろう。公園のブランコが、小さく揺れていた。ブランコの後ろにある古びた木製のベンチの上で、キトは丸くなって眠っていた。山崎の家からすぐの場所にあり、南中する前の日光を浴びながら居眠りするのが、キトの午前の日課だった。キトを連れて山崎の部屋にやってきた雪乃は、山崎と一緒に朝食をとることもあったし、山崎が出かける時間になってもベッドから出てこないこともあった。
猫の視線はセックスの邪魔にはならないらしく、山崎と雪乃は3日に一度は体を重ね合わせていた。170cmの山崎より少しだけ上背のある雪乃は、ひょろりと痩せていたが、胸と尻の辺りだけは肉づきのいい女だった。整った目鼻立ちを見るにつけ、顎の骨があと1センチ短ければ、2流のテレビタレントくらいにはなれるだろうと俺はいつも思うのだが、山崎は、彼女の容姿に十分満足していたようだ。雪乃はシフト制のアルバイトをしていると言っていたが、勤務時間はかなり不規則だった。一度俺はキトに、雪乃がどんな女なのか聞いてみたが、キトは、答えたくないようだった。
《キトさん、キトさん、キトさーん!》
ベンチに着く前から、コタローは、3度もキトの名を叫んだ。コタローがその日公園を訪れることは知らせてあったので、キトは別段驚いた風もなかった。薄くまぶたを持ち上げてコタローの姿を認めると、危うくまた眠り込みそうになった。
《それはないぜ、キト》
俺が言うと、キトは少し面倒くさそうに、久しぶりね、とコタローの方を見て、念を送った。


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2012年12月1日土曜日

俺の名は勘九郎(99)


《団体の名前は?》
《「名前のない市民団」》
《名前のない市民団…か。薄気味の悪い名前だな。それとも正義の味方は、問われても名乗らないのかな》
《市民団の人たちは、自分たちの活動を正義の執行だと思っているようです。堀田さんも、彼らの主義や主張が正論であることは分かっているのですが、初めは強い違和感を持っていました。けれど、最近は「違う」という感覚が薄れ始めています。ぼくの不安は、それと反比例するように強くなってきました》
《正義の執行者…。ますますもって近づきたくないタイプだね。その団体と堀田は、どう関係しているんだい?》
《市民団は、徳原エナジルがリストラした社員を、不当解雇だと訴えて裁判を起こすつもりでした》
《エナジルが行ったのは、希望退職だったはずだ。堀田だってそのくらい知っていると思うが》
《自分の意思で退職した人がほとんどですが、なかには強引に希望させられた人もいるようです。ただ、強引さを証明する手だてがなくて、市民団は証言を集めようとしていました》
《強制的に希望退職させた証拠がいるというわけか》
《はい。堀田さんは当事者からヒアリングして、証拠となる記録を作る役割ですが、本人の発言にも曖昧なところがあるそうです》
《そんなことじゃ、裁判にもならないだろう》
《ええ。市民団の牧野という団長は、この件で不当解雇の裁判を起こすのは難しいと判断しているようです。しかし、組織のなかに徳原建設の談合事件を追及していた幹部がいて、彼らは建設の代わりにエナジルを懲らしめようとしています》
《談合で、徳原建設を告発できなかったからか?》
《はい。率先して「脱・談合宣言」したことがマスコミでも話題になりました。徳原建設は、かえって株を上げたようなところがあります。市民団の幹部には、自分たちが徳原を追い詰めたのに、だれにも評価されなかったことを、不満に思っている人たちがいるようです》
《「名前のない市民団」の名前を売る絶好の機会を失ったってわけか》
《そうみたいです。市民団の目的は、営利ではありません。元々は、公正な市民社会を実現することを目的とした、無名の人たちの集まりだったようです。けれど、利益を求めない分、名誉を欲しがる人が出てきたそうです》
《究極の利他精神なんて、動物には無理なんだよ。しょせん俺たちは、生きるために生きてるだけなんだ。人間だって同じさ》
《生きるために、生きてるだけ…、ですか。なんだか難しいですね》
《考えすぎないことさ》
コタローはしばらく黙って歩いたが、遠くにいるキトの匂いを嗅ぎとったようで、早稲田通りを超えると急に元気になって走りだした。どうやらもう、俺の道案内はいらないようだ。


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