2010年12月24日金曜日

俺の名は勘九郎(52)

社長になった田中はコスト意識の強い技術屋で、原価低減に熱心ではあったが、財務にはうとく、経営者的な思考をしたこともなかった。浅野ソーラーの経営方針は、上野のひと言で決まり、それを田中に伝えるのも猪俣の役目だった。社長を補佐せよ、と言われた蔵島に猪俣が仕事の報告することはなく、蔵島はいわば窓際に置かれた存在になってしまった。
ハンは知り得た情報のすべてを俺に教えてくれた。昔のことや上野や猪俣の考えていたことまで、一生懸命俺に語った。
《どうしてそんなにも浅野に肩入れするんだね。たまたまハンを使うことになった人間というだけじゃないか》
俺には、人間をご主人と思うような気持ちは全くなかったので、あるとき、ハンに聞いてみた。
《人間を嫌う気持ちも分かりますよ。私の体はかつて地下に眠る油でした。人間は、地球に何千メートルもの穴をあけて、地上に私を引っ張りだし、なんども機械に通して私をこの体にしたのです。壊れてしまえばポイと捨て、エコだといって、今度はペットボトルにでもするんでしょう。そのくせ、石油を燃やすと地球が暑くなるとか言ってさわいでる》
《究極のエコは、人間が地球からいなくなってくれることだな》
《そういうことです。だけど、人間がいなければ、いまの私は生まれていないのも事実なのです。地下に眠る油のままだったら、勘九郎さんと話をすることもできなかったでしょう》
《人間が新しい命を創造したとでも言うのか》
《いいえ、命は素粒子にだってあるのですから。ただ、今の私は今の命を生きています。すべてのものが流転するなかで、私の命をいとおしんでくれたのが、浅野だったのです》
《物に愛着を持つタイプの人間も中にはいるな》


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2010年12月12日日曜日

俺の名は勘九郎(51)

ハンが蔵島の所へ行ってからも、俺は山崎の家の鳥かごをネグラにしていた。たまにくれる厚揚げはうまかったし、アホの山崎ウォッチングは、それなりの暇をつぶしになった。そして俺は、山崎と同じように、毎朝徳原ビルへ通うようになった。ビルの前の大通りには、高い欅の木が等間隔に並んでいて、そのうちの一本は、山崎たちのいる営業部を眺めるのにちょうどいい場所にあった。
俺だって一日中山崎ウォッチングをするほど暇じゃあない。毎日そこへ通うようになったのは、ハンと話をするためだ。浅野と同じように蔵島は、ハンを常に持ち歩くようになった。浅野が死んだ2月からのことを、胸のポケットからハンは詳しく調べた。人間の意思を拾うだけでなく、パソコンや机などがもつ記憶にさえ、ハンは働きかけた。相手に自意識がなくても、ハンは対象の物体から記憶を引き出すことができた。
浅野の後を継いで社長になったのは、副社長の蔵島ではなく、専務だった田中だ。蔵島は副社長のままだったが、5月になると、営業部長の任務も外され、新社長の田中を補佐しろと、上野から指示された。新しく営業部長になったのは、徳原建設からやってきた猪俣という男で、かつて上野の腹心と言われていた人物だ。小太りで猫背ぎみの猪俣は商業高校の出身で、上野の強い引きがなければ、学歴偏重の徳原建設にあって部長格にまで出世することはなかっただろうと言われていた。猪俣は、業界調整のプロフェッショナルで、猪俣が「取れます」と言った仕事は必ず受注できたし、「今回は取れません」と言えばその仕事はとれないのだった。上野は、猪俣の言葉を黙って聞くだけだったから、たとえ猪俣が逮捕されても、談合の存在をしらない、と言い張ることもできた。それは徳原建設の暗黙のルールであって、かつて上野が談合の調整役をしていたときも、上司に細かな報告などしたことがなかった。いや、してはいけなかったのだ。上司からは「取れるのか、取れないのか?」とだけ聞かれた。上野が「取れます」と答えれば、設計や購買は必死になって動いたし、「取れません」と言えば、その仕事は存在しないのと同じだった。上野が役員になり、談合の現場を離れたとき、後任に選ばれたのが猪俣だった。業界の仲間に猪俣を紹介して、「水曜会」という名のその会から去ることを上野が伝えると、他社のメンバーは「おめでとうございます」言って上野を送りだした。各社の利益を代表する調整役たちの結束は強く“仲間”が役員に昇格するのは慶事だったのだ。


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