2010年3月28日日曜日

俺の名は勘九郎(25)

いつも仕事しごとで、家のことは和江に任せっぱなしだったし、祥子や玄太とも、ほとんど遊んであげることができませんでしたね。今はそのことを、とても後悔しています。
でも、ぼくは、あの会社を自分の命だと思っていたのです。だから会社を取り上げられてしまったとき、ぼくの命が終わってしまったように感じました。いまでもぼくは、あの会社の社長だけれど、もうあの会社は、ぼくの会社ではなくなってしまったのです。

お月さまの光が地球に届くまで、1秒くらいの時間がかかるということは、玄太にも理解できるかな。玄太がお月さまに向かってペンライトを振ったら、その光は1秒たってからお月さまに届くんだ。お月さまが鏡だとしたら、そこに映った光が地球へ帰ってくるのにまた1秒かかることになるね。つまり鏡に映った地球の姿は2秒前の世界ということになるんだ。
そして今日、ぼくは鏡になったお月さまを見てしまったのです。2秒前の世界に存在していなかったぼくが、いまは存在している。それはいけないことのように感じました。なぜだか、そんな気がしてしまったのです。
帰ってきたぼくが、真っすぐ洗面所へ向かったことに、誰か気づいたかな。ぼくは鏡の中に自分がいることを確認したかったのです。
そこには僕がちゃんといました。でもぼくは、逆にそのことが怖くなってしまってね。鏡に映っている自分は、0.000000000001秒前のぼくで、今のぼくは存在していないのかもしれない。今度は、そう思ってしまったんだ。
昨日はあったし、明日もあるのに、どうして毎日、今日なのだろうね。
昨日のぼくは、いたのかな。
明日のぼくは、いるのかな。
こんなことを考えてしまったのが、いけなかったのですね。最近のぼくは、少し変だったのかもしれません。
和江はそのことを心配してくれていましたね。家族のことを暖かく見守っていてくれて、本当にありがとう。いつも自分のことを最後にして、ぼくや子供たちのわずかな変化にも気がついてくれましたね。祥子の足の指に出来た小さなあざを見つけて心配そうに伝えてくれたり、玄太の喉仏がすこしだけゴツゴツとしてきたことをほほ笑みながら、教えてくれましたね。


「続きが楽しみ」と思ったら押して下さい。

2010年3月21日日曜日

俺の名は勘九郎(24)



日記帳に濃い青色のインクで浅野の意思を記すのも、私の重要な仕事のひとつでした。
妻と子供たちの眠りが深くなったのを確かめると、浅野は自室に入り遺書の代わりとなる最後の日記をつけました。自尽に及ぶ二時間ほど前のことです。

和江、祥子、玄太
ずいぶんと寒い夜になってしまったね。
もう少し暖かい夜だったら、ぼくも、こんなことは考えなかったのかもしれません。
祥子と玄太にとっては、父さんが自分のことを、ぼく、と言うのは不思議かもしれないけれど、ぼくは、和江の父さんではないから、今日は、ぼくと言うのを許して下さい。祥子と玄太に、許して下さい、なんて言い方をするのも変だと思うかもしれないね。けれど、これから父さんがすることを、本当に許してほしいのです。
今日、ぼくは月を見ました。まるくて大きな、銀色に光るお月さまでした。ぼくにはそれが、鏡に見えてしまったのです。
その鏡には、ぼくが映っていませんでした。街があって、ぼくの会社もあって、ぼくと一緒に働いてくれたみんなもいるのに、ぼくだけが映っていませんでした。ぼくがつくった会社が、もうぼくの会社ではなくなってしまったから、そんな風に見えたのかもしれません。


「続きが楽しみ」と思ったら押して下さい。

2010年3月20日土曜日

俺の名は勘九郎(23)

山崎は、クローゼットに備え付けの引き出しから、大きめのプラスドライバーを取り出すと、机に向かって座り、箱の中にあった説明書を読み始めた。ハンの位置から裏面が見える。
《オウム用だが小型のサルも飼える、って書いてありますね》
《読めるのか?》
《仕事ですから》
なるほど。ハンは俺なんかより、よっぽど頭は切れるのだろう。しかし俺には翼もあるし、嘴もある。いつだって自由に空をとべる。お前みたいに、机の上に転がされっぱなしなんてことはない。
俺は、しっかりと閉じてから、あえて挑発的なことを考えた。そしてハンの様子をそっと伺った。しかしハンには、目も口もない。究極のポーカーフェイスというわけだ。黙っているハンが、俺の意思を拾っていたのか、読めなかったのか。結局、俺には分からなかった。
《それだけの力を持つには、ずいぶん苦労したんだろな?》
意思を開いて、ハンに聞いてみた。
《特別なことをしたつもりはありませんよ。ただ、あなたがたの言う五感というものを一つに集めた状態にしておかないと、何も感じることができません》
《五感を一つに?》
《私には、あなたが真っ黒だということが分かるし、厚揚げは柔らかいということも知っていますよ。ただ、それは実際に見たり、触ったりしているわけではありません。見る、触る、味わう、嗅ぐ、聞く。これらの感覚を一つして、喉もとに集中させるんです》
《喉もと?》
《キャップについているフックの先の辺りです。リラックスした状態で、喉元に全部の感覚を集中させているときに、奥深いところにある意思まで拾えることは確かです。でも、これは私だけの感覚かもしれません》
《ありがとう。参考にさせてもらうよ》


「続きが楽しみ」と思ったら押して下さい。