2012年5月26日土曜日

俺の名は勘九郎(88)

「まずいぞ、これ。尾藤さんのことだから、一週間納期を延長しろって、言ってくるぜ」 永野の額に深いしわが寄っていた。永野は、工業高校を卒業して浅野ソーラーに入社し、浅野にも可愛がられていた社員だ。浅野が死んだ年の4月に課長になった永野は五十に近づいていたが、若い社員とも気さくに会話し、山崎のことも時々酒に誘ったりしていた。
「すぐに届けてきます!」
「そうしてくれ。手元にある図面で、作業を始めるように電話しておく。納期のことも頼んでおくけど、山崎も行って、よくお願いするんだ」
「はい!」
少し震えた声で、山崎は返事した。厚木の工場では、ソーラーパネルの生産がフル回転で進んでいた。なんとか、5月の初めにポールとの組み立てができるというところまで、生産が追いついてきた。しかし、ポールの搬入が遅れたのでは、工場の努力が水の泡となってしまう。
小田原についた山崎はタクシーに乗って、ヨウザンへと急いだ。正門の脇にある受付で、尾藤の居場所を尋ねると、山崎は工場の建屋を案内された。工場の中には鉄板で仕切られた小さな打合せスペースがあって、真ん中に作業台を兼ねたスチールの机があった。「そちらにかけてお待ち下さい」と言って、山崎を案内した社員は去って行ったが、山崎はカバンの取っ手を両手で握り、立ったまま尾藤を待った。 天井の下を走るクレーンから太いパイプがぶら下がり、大きな警報音が工場全体に響いていた。鉄板を切断するためのガスバーナーの轟音やグラインダーという名の機具を使って、鋼鉄を削る音もしていた。工場の歩行通路は緑色に塗られているのだが、そこにはいくつもの作業靴の跡が残っていて、ペイントしてからかなりの期間が過ぎていることを物語っていた。
「整理整頓が出来てない工場は問題外だが、ペンキの色がいつも鮮やかな工場ってのも困りもんなんだ」 山崎は、研修中に聞いた尾藤の言葉を思いだしていた。
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2012年5月12日土曜日

俺の名は勘九郎(87)

浅野ソーラーとヨウザンの契約交渉が決着したのは、翌年の2月で、ちょうど浅野の一周忌の頃だった。 結局、尾藤は1円の値引きもしなかった。杉本だけでなく、田中もそれを聞いて、苦々しく思ったが、ヨウザンより安い見積を出した業者は他に一社しかなかった。実績のないその業者に仕事を任せることは出来ないと判断した田中は、尾藤の言い値で契約することを杉本に認めた。 たっぷりとあったはずの納期にも危険信号が出ていた。 「納期は、契約後3カ月の約束ですから、5月の中旬になります」 尾藤は、そこでも正論を主張した。 「ばかな。それじゃあ、うちで組み立てる時間がない。連休前には、納めて下さい。うちは、連休返上でやっても、ぎりぎりだ」 杉本は今度こそ、強硬に主張した。価格交渉で突っ張り過ぎたかもしれないと感じていた尾藤は、杉本の机に広げた工程表の向きをかえ、しばらくそれを睨めていた。 「分かりました。4月の28日にお届けしましょう」 尾藤は、短縮できそうな工程を皮算用して、杉本にそう約束した。 >
カバンの中に眠らせてしまった図面を発見して、山崎は「やっべえ!」と思わず声を上げた。山崎の机と向かい合わせに座っていた女子社員が、どうしたの?と驚いた顔で尋ねたが、山崎は答える前に席を立っていた。技術課長の永野の所へ飛んで行った山崎は「すいません、承認図、返し忘れてました」と失態を告白した。 図面の承認というのは、発注者が、業者の作った図面を承認する行為で、業者は承認された図面の内容に従って製作を開始する。 F市の神田がヨウザンの工場を見たいというので、尾藤のところへ連れていく前の日のことだった。案内役の山崎は「承認図を尾藤さんに渡してくれ」と永野から頼まれていたのだが、ヨウザンの工場につくと、承認図のことをすっかり忘れてしまった。それから一週間が経って、山崎はようやくカバンのポケットにしまってあった図面に気がついた。 >
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俺の名は勘九郎(86)

尾藤と杉本が何度やりあっても、議論は平行線だったが、時間が立つほど、焦りだしたのは、杉本の方だった。ヨウザンの他にも、金額の妥結しない交渉をいくつも抱え、杉本は技術部に突き上げられだした。 「金は後で決める事にして、先に走らせてくれ」 社長の田中にまで頼まれて、仕方なく杉本はいくつかの業者に打診した。 「足りない分は次の仕事で返すから、まずはこの仕事を始めてくれないか」 そんな風にして、プロジェクトはスタートしたのだが、頑なにそれを拒んだのが、尾藤だった。 「仕事が終わってから『払えません』と言われたら、どうしようもないじゃありませんか」 尾藤の言うことは正論だった。しかし、時は徒に過ぎていく。杉本は田中に「エナジルの上野社長からヨウザンに圧力をかけてもらえないでしょうか?」と頼んだ。田中はなにも考えず、杉本が言った事を上野にお願いした。 「そんなくだらないことに俺を使うな!」 田中の頭にカミナリが落ちた。 「ヨウザンだかなんだかしらんが、そこを使いたいと言ってきたのはお前たちじゃないか。てめえらで何とかしろ!それとこの仕事、絶対赤字にするなよ」 田中は余計なことを頼みに来てしまったと後悔した。
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