2010年10月30日土曜日

俺の名は勘九郎(47)

「接待を受けることは固く禁止されている、と鶴巻さんが言うもので…」
「それでも帰さないのが、今日の仕事なんだよ。工場見学だけじゃ、何の意味もねえんだ!」
「すいません。あまり強引すぎるのも失礼だと思ったものですから…」
「くっそお。お前なんかに任せられないと思って、ずっと貼り付く予定にしてたんだよ。俺がいなけりゃ、やっぱりこのざまだ」
上野に罵声を浴びせられる度に、浅野はすいません、と口にしましたが、接待を無理強いする上野のやり方は時代に合っていないのだと、内心では思っていました。それを言えず、ただひたすら電話口で、すいませんとしか言えない自分がもどかしく、そして空しくなりました。この人とは一生合い入れることはないのだろう、携帯を耳から少し離して、浅野はそんなことを考えていました。
5階のフロアに上野が怒鳴りこんできたのは、翌朝のことでした。執務スペースにある机で仕事をしていた浅野の前に立つと
「接待を断ったのは、部下のなんとかって野郎で、鶴巻さんは行くつもりだったそうじゃねえか。あの後、鶴巻さんに電話したんだよ」
「お言葉ですが、あの状況で鶴巻さんだけが行くという判断はできなかったと思います」
「ふざけるな!てめえが、そこまで能なしだとよく分かった。それが分かったことが、唯一の収穫だな」
上野の言葉はフロア中に響き渡りました。陰で「天皇」と呼ばれるようになっていた上野のは、「お言葉ですが」と言われるのが一番嫌いだったのです。


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2010年10月21日木曜日

俺の名は勘九郎(46)

「業者さんたちと飲んじゃいけないことになってるんですよ。うるさい決まりが沢山ありましてね」
「こんな田舎まで来たら、うるさく言う人もいないでしょう。食事も用意させているので、是非お願いします」
「どうする?」
元来が酒好きの鶴巻が部下の方を見て言ったので、浅野は一瞬ほっとしました。
「私は会社に戻りますので、部長はどうぞ」
役所ではなく、「会社」と呼んだことを不思議に感じましたが、浅野はすぐに
「そう固いことをおっしゃらずに、どうかお付き合い下さい」
と言って、ふたりを帰らせまいとしました。
「いいえ、そういうわけには参りません」
「最近の若いのは、融通がきかないんですよ。まあ、我々の世代が少しルーズ過ぎたのかもしれませんな。また今度ということにしましょう」
鶴巻は申し訳なさそうでしたが、部下の方に向き直ると「俺は会社へは帰らないぞ」と言ってから、浅野に駅までの道順を聞きました。癇癪を起こす上野の顔を想像すると浅野は憂うつになりましたが、これ以上引きとめるのも失礼だろうと判断して、浅野は車を呼びました。
タクシーが工場の正門を出て右折するのを見届けると、浅野はすぐ上野の携帯に電話をかけました。
「バカヤロー。絶対に帰すなと言っただろ!」
上野の反応は予想通りでした。


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2010年10月9日土曜日

俺の名は勘九郎(45)

黒塗りのハイヤーに乗せられた鶴巻は「東京に戻る上野がその車を使えばいい」と恐縮したが、「厚木の工場までは車なら1時間で行けますから」と言ってその場を辞去した。
「この車は、上野さんの専用車ですか?」
部下の一人とハイヤーに乗った鶴巻は、ドライバーに訪ねた。
「いいえ、この車は徳原建設のものです。私も、建設の社員ですけど、上野さんには昔から可愛がってもらいまして、エナジルが車を使うときには、だいたい私が指名されます」
「気さくで、気のきく方ですよね」
「ええ。私らみたいな学のないもんにも分け隔てなく接してくれる人です」
「優しい人なんだ」
「さあ、どうでしょう。大学を出たエリートさんたちには、ずいぶんと厳しいことも言うようです」
鶴巻たちが何気ない会話をしているうちに車は厚木工場に付きました。丹沢連峰の向うに隠れようとしていた太陽が、工場に並んだ発電パネルにオレンジ色の光を優しく投げかけていました。
管理棟のエントランスで一向を迎えた浅野は、挨拶もそこそこに、ディスプレイ用のパネルと街路灯が並んでいる場所に鶴巻たちを案内しました。
「だいぶ陽は陰ってしまいましたが、昼の間に電気を蓄えているので、御覧のように十分な明るさを保つことができます。今は風がほとんどありませんので、蓄電したエネルギーだけで照明していますが、風が吹くと自動的にバッテリーが制御され、風力による電気も活用するように切り替わります」
浅野はいつものように、澱みのない説明を行いました。
現場での見学と、プレゼンテーションルームでの質疑応答が終わると、あたりはとっぷりと暮れ、落ち葉が構内の道路を流れるのが見えたので、風が出てきたことが分かりました。
「今日は本当にどうもありがとう御座いました。上野社長にもよろしくお伝え下さい」
「この後は、なにかご予定がありますか。軽く食事でもと思っているのですが。上野も戻ってくるつもりでおります」
浅野は鶴巻たちを引きとめようとしました。


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