2010年11月28日日曜日

俺の名は勘九郎(50)

ハンと俺が話しをしていると、蔵島が山崎の方に向かって歩いてきた。ハンが先にそのことに気づいて、強力に自己の存在を主張し始めた。俺もあわてて蔵島に念を送った。
《気づいてくれ!》
俺たちが念じる前から、蔵島はハンのことが気になっていたようだ。
「それ、浅野さんが使ってた万年筆じゃない?」
「そうっすよ。お通夜のときに社長のお子さんから貰ったんです」
「女の子?」
「いえ、息子さんでした。『これは、会社の人に』って泣きながら言うんで預かってきました」
「悪いけど、ぼくが預かっていいかな。それ、浅野さんが会社をつくった日に買ったペンなんだ」
「いいっすよ。てゆうか、万年筆って使いずらいっすね」
椅子から立ち上がって、山崎は蔵島にハンを渡した。ようやく収まるべきところに収まったハンは、ふうーっ、と大きく息をした。
《やっと落ち着きました。でもこれがスタートです》
キャップのフックが陽光に反射してきらりと光り、それはまるでハンの目が鋭く輝いたかのようだった。
「社長はねえ、会社を興した日から、ずうっとこのペンを使っていたんだ。どんなに小さな仕事でも、契約書にサインするときは必ずこのペンだった。ワープロやゴム印を使わずにね。ぼくの名前で決裁した案件は、営業部長の印で済ませているけど、社長決裁の案件は、今だって必ず自分でサインしているよ」
「そんな大事なものだったんですか? 放りっぱなしにしてすみません」
「山ちゃんたちの世代にしたら、万年筆なんて面倒くさいだけのペンなんだろうね」
「正直、ボールペンの方が使いやすいです」
「インクの文字が涙でにじむ、なんて良さがあるんだけどなあ。時代かな。ぼくも最近はほとんど使ってなかったな」
「でも、雰囲気はありますよね。なんか想いが込められてそうっていうか」
「今日から、このペンを使わせてもらうよ。浅野ソーラーが昔の浅野ソーラーに戻る日まではね」
「戻る日?」
「うん、それが出来たらこのペンは、社長の奥さんに返そうと思うんだ」
どうやら、ハンの強い念が、蔵島の心に響いているようだった。


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2010年11月20日土曜日

俺の名は勘九郎(49)

俺が山崎と初めてあったのは、浅野が死んだ年の6月のことで、新橋にある会社まで山崎を追いかけたのは、ハンをなんとか蔵島のもとに帰してやりたいと思ったからだ。ハンと違って俺は自由に飛ぶことができるが、山崎のカバンからハンを取り出し、蔵島の前に落としてやるチャンスはありそうもなかった。
机の奥でほこりをかぶっていたハンを山崎が会社まで持って行ったのは、朝から蝉の鳴き声がうるさい夏の終わりのことだった。会社についた山崎は、鞄のポケットからハンを取り出すと、机の奥から裏紙をとって、「山崎浩介」と書いてみた。濃紺のインクでしたためられた文字は意外に達筆で、俺は多少感心もしたのだが、山崎は自分で書いた文字を眺めながら、ハンをくるりと指先で回転させた。ペンの先から飛んだインクが、青いワイシャツに小さないシミを作った。山崎は、ツェっと舌打ちしただけだが、俺はアっと叫んでしまった。ハンが指から落ちてペン先が潰れたら、ハンの万年筆としての機能は死んでしまう。山崎はそれまで、万年筆を使ったことがなかったのだ。ペン先を下に向けて山崎は何度かハンをノック式のシャーペンように振ってみたが、そのときはインクが漏れることはなかった。ペン先をよく見た山崎は、万年筆の構造を理解したのだが《使いづらいペンだなあ》と不満に思った。
手紙の一枚も書いてみれば、万年筆がつくる文字の趣が分かるのだが、と俺が思うと、
《今の若い人には無理かもしれませんね。メールの時代ですから》
とハンが念を送ってきた。
《ハンの仲間は、なかなか生まれてこないってわけかい?》
《ええ、もうずうっと減りっぱなしですよ。インクのカートリッジを替える必要があったり、たまにインク漏れしたりするのが嫌われるんでしょうね。もっとも、最近はインクを漏らしてしまうことなんてありませんよ。さっきみたいに、鉛筆のようにまわされることは想定外でしたけどね》
《壊されやしないかとドキドキしたよ》


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2010年11月7日日曜日

俺の名は勘九郎(48)

やがてウィンディーサニーを含めた太陽光や風力を利用するタイプの街路灯に補助金がつくことにはなったのですが、工場見学の一見以来、上野と浅野の関係は決定的なものになっていました。上野は浅野のやることにいちいち文句をつけ、ことあるごとに5階のフロアまで降りてきて、社員たちが見ている前で浅野を怒鳴りつけたのです。
「わざわざ、ここで言うことないのにね」
同情する女子社員の声が聞こえたとき、浅野はいっそう屈辱を感じました。
年が明け、正月休みが終わりに近づくと、浅野は憂うつ感が増してくるのを感じました。
そして出勤の朝、浅野はトイレに座ると、ズボンとパンツをおろした格好のまま動けなくなってしまいました。
《俺が、俺の作った会社に行きたくなくなってしまうなんて》
そう考えた浅野は絶望的な気持ちになりました。それでも何とか立ち上がり、水を流そうとして、ふと便器の中を覗いてみました。よく磨かれたパールホワイトの便器の中に、鉛筆よりも細い便が、とぐろを巻くこともできずに沈んでいました。ミミズのような赤黒い排泄物を見た浅野は、会社ではなく病院に行くことを決めたのです。
ストレスからくる胃潰瘍と軽いうつ症状と診断された浅野は、結局3週間も会社を休んでしまいました。入院中、不眠を訴えた浅野は医者から睡眠薬を処方されました。消灯時間の少し前に、毎晩一錠ずつ渡されるその薬を、浅野は一度も飲みませんでした。プラスチック製のメガネケースに浅野が睡眠薬を隠していることに、医師も看護師も気づきませんでした。私は、目の前を通過していくすべての人間たちに薬のことを訴え続けました。しかし、誰かが私の念を感じとることはありませんでした。
そうして、あの、月の冴えた2月の夜を迎えてしまったのです。


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