2010年11月20日土曜日

俺の名は勘九郎(49)

俺が山崎と初めてあったのは、浅野が死んだ年の6月のことで、新橋にある会社まで山崎を追いかけたのは、ハンをなんとか蔵島のもとに帰してやりたいと思ったからだ。ハンと違って俺は自由に飛ぶことができるが、山崎のカバンからハンを取り出し、蔵島の前に落としてやるチャンスはありそうもなかった。
机の奥でほこりをかぶっていたハンを山崎が会社まで持って行ったのは、朝から蝉の鳴き声がうるさい夏の終わりのことだった。会社についた山崎は、鞄のポケットからハンを取り出すと、机の奥から裏紙をとって、「山崎浩介」と書いてみた。濃紺のインクでしたためられた文字は意外に達筆で、俺は多少感心もしたのだが、山崎は自分で書いた文字を眺めながら、ハンをくるりと指先で回転させた。ペンの先から飛んだインクが、青いワイシャツに小さないシミを作った。山崎は、ツェっと舌打ちしただけだが、俺はアっと叫んでしまった。ハンが指から落ちてペン先が潰れたら、ハンの万年筆としての機能は死んでしまう。山崎はそれまで、万年筆を使ったことがなかったのだ。ペン先を下に向けて山崎は何度かハンをノック式のシャーペンように振ってみたが、そのときはインクが漏れることはなかった。ペン先をよく見た山崎は、万年筆の構造を理解したのだが《使いづらいペンだなあ》と不満に思った。
手紙の一枚も書いてみれば、万年筆がつくる文字の趣が分かるのだが、と俺が思うと、
《今の若い人には無理かもしれませんね。メールの時代ですから》
とハンが念を送ってきた。
《ハンの仲間は、なかなか生まれてこないってわけかい?》
《ええ、もうずうっと減りっぱなしですよ。インクのカートリッジを替える必要があったり、たまにインク漏れしたりするのが嫌われるんでしょうね。もっとも、最近はインクを漏らしてしまうことなんてありませんよ。さっきみたいに、鉛筆のようにまわされることは想定外でしたけどね》
《壊されやしないかとドキドキしたよ》


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