2009年12月10日木曜日

俺の名は勘九郎(12)

当時29歳だった浅野は、大手電機メーカーを退職して、ソーラーパネルを製造・販売する小さな会社を興した。会社の名前を「浅野ソーラー」という。理工学部出身の浅野は、浅野と同じ大学を卒業して二年ほど海外を放浪していた後輩の蔵島という男を誘い、たった二人で業を起こした。資本金はすべて浅野が負担している。

浅野が開発したソーラーパネルは、太陽のエネルギーを効率よく電気に変換した。しかし、名もないベンチャー企業の製品を売ることは簡単なことではなかった。技術畑出身の浅野は、よい物が安ければ必ず売れると信じていた。しかし、高品質で安いものも、信頼と評判がなければ、決して商品は売れない。宣伝と営業にまで手が回らない浅野を経営学部出身の蔵島がよく補佐した。「清廉潔白」を是とし、正攻法しか知らない浅野に対し、世界中を放浪して歩いた蔵島は、人間の善意を信じることの大切さと、その危うさを知っていた。企業社会で競争するには、ときに清と濁とをあわせ飲む必要があることを、体感的に悟っていた。現実派の蔵島が、理想主義の浅野を盛り立てながら、会社の進むべき方向をうまくリードした。

会社は少しずつ成長し、ソーラーパネルは省エネ社会のニーズとマッチし、着実に売り上げを伸ばした。浅野ソーラーが急成長したのは、太陽の光と風の力を利用できるハイブリッド型街路灯を商品化してからのことだった。晴れた日には太陽の光で発電し、雨の日でも風さえあれば、発電できるタイプの街路灯を浅野は開発した。チュウリップの花のような形をした銀色の羽は風と光を受け、くるくると回りながら電気を作った。そして、花びらの下の電灯が、夜になると街の小さな路地を明るく照らした。浅野はその街路灯に「ウィンディーサニー」という名前を付けた。

浅野ソーラーは、設立20年で年商を50億円にまで伸ばし、従業員の数は80人に増えた。中核部品のソーラーパネルを製造する工場に40人の従業員を抱え、新宿のテナントビルに移した本社には、24人のエンジニアと12人の営業マンがいた。その中の一人が、現在の私の主となってしまった山崎だ。


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