2010年4月24日土曜日

俺の名は勘九郎(29)

先代の社長から抜擢された綱川は、上野の実力を認めていましたが、社長になった綱川を後輩扱いする上野に、ある日注意しました。
「上野さん、二人だけの時ならともかく、社員の前では社長と呼んでもらえませんか。あなたに呼びすてにされたのでは、示しがつきません」
「偉くなったもんだな、と言いたいところだが、一応、俺より偉いんだったな。社長なら、俺をどこへでも飛ばしたらいいだろう」
「考えておきます」
上野は、綱川に仕えるつもりは全くなかったのです。翌年の四月、綱川は上野に子会社であるエナジルの社長就任を命じました。

「俺は綱川みたいに、やわなことは言わないから、覚悟しとけよ。圧倒的な技術力のある商品を、たった5%の利益で売るなんてバカな経営はやらせないからな」
「綱川社長は、経営の方針については、いっさい私に任せると言って下さいました。ウィンディーサニーの売り方にしたって、これまでと同じでいいということだったので、徳原建設のグループに入る決断をしたのです」
「どうせ、綱川は、金はだしても口は出しません、とかなんとか言ったんだろ。あんなヤツに口出しはさせねえよ。浅野ソーラーの親会社は徳原エナジルなんだ」
「それじゃあ、約束が違います。綱川社長と話をさせて下さい」
「今年度中に、エナジルは建設の売り上げと利益を追い抜く。エナジルの経営に、文句は言わせない。徳原の傘下に入ったからには、非公開の零細企業とはわけが違うんだ。エナジルの連結利益を向上させるために、浅野ソーラーの経営体質を徹底的に改善してやるよ」
《この人と話をしてもらちが開かない》
上野を言葉で理解させるのは不可能だと、浅野は諦めました。


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2010年4月10日土曜日

俺の名は勘九郎(28)

ダムの工事で業績を大きく伸ばした徳原建設は、ダムに付帯する水力発電機を製造したことが契機となって、エネルギー分野にも進出していました。
2005年の時点で、グループの中核企業になっていた徳原エナジルは、その10年ほど前、ドイツの発電機メーカー・ハンスロル社と包括的な技術提携をし、国内及びオセアニア地域における独占的販売権を獲得した際に発足した会社でした。
エナジーではなく、エナジルという社名になったのは、ハンスロル社に敬意を払ったためだったそうです。
徳原グループの資本を受入れることで、浅野ソーラーは新工場を建設することが出来ました。資本提携に関する契約書にサインするときも、浅野はもちろん私を使いました。そして、「浅野辰己」の署名の上の段にサインしたのが、徳原エナジルの社長である上野喜助でした。

徳原建設の下に浅野ソーラーが入るのではなく、徳原建設の子会社である徳原エナジルの下に入ってしまったことに、ほとんどの人間は何も感じませんでした。
「お前の上司は綱川じゃなくて、俺だということを忘れるなよ」
契約が成立しためでたい日に、なぜ上野が高圧的なもの言いをするのか、浅野には分かりませんでした。
上野喜助は、徳原建設の社長の綱川時雄よりも2歳年上でした。綱川が常務取締役だったころ、上野は専務取締役で、次期社長候補の筆頭と目されていた人物でした。


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2010年4月4日日曜日

俺の名は勘九郎(27)

日記を書き終えた浅野は、居間のチェストに置いてあった腕時計を持つと、書斎に戻ってきました。そしてそれを左の手首にはめ、右の掌で私の体をぎゅっと握りしめました。
「長い間、ありがとう」
浅野は、私たちにそう言ってくれたのです。銀色の盤面の右端で金のリューズが輝く腕時計は、私よりも長い浅野との付き合いでした。私が浅野のところに来てからも、22年の時が経っていました。
閉じた日記帳の上に、私と腕時計を丁寧に置くと、浅野は小さなあくびをひとつしました。そして、一粒の涙をこぼしながら、フフッと鼻で笑ったのです。
《こんな時でも眠くなるなんて、大発見じゃないか》
心の中でそうつぶやくと、浅野は大量の睡眠薬を、ストレートのウィスキーと一緒に飲みました。浅野の意識が朦朧とし、やがて消えていくのを、ただ感じることしか私にはできませんでした。

浅野ソーラーの売上金額が40億円を超えた頃、ハイブリッド街路灯の受注増加率が急停止しました。基幹部品のソーラーパネルを製造する工場の能力が限界に達してしまったからです。市場にはウィンディーサニーを求める声が沢山ありました。しかし、浅野は、借金をして新しい工場を建設することに躊躇しました。投資を回収できなければ、会社を倒産させてしまうこともあります。浅野はむしろ、新商品の開発に資金をつぎ込みたいと考えていました。
ゼネコン大手の徳原建設から、浅野に対してグループ入りの打診があったのは、その頃のことでした。
「ウィンディーサニーは、市場を席巻する力をもった商品です。うちの資本を有効に活用してもらえれば、浅野ソーラーも躍進することは間違いないと思いますが、どうですか?もちろん、浅野ソーラーの社名も経営体制も今のままで結構です」
徳原建設社長の綱川時雄から話があったのは、2005年の春のことでした。



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2010年4月2日金曜日

俺の名は勘九郎(26)

今日まで、本当にありがとう。そして本当にゴメンなさい。
自ら死を選ぶ人間は、きっと天国にはいけないのでしょうね。だからもう、いくら待っても、和江に会えないことだけが心残りです。

百万回生きたネコ、というお話しを、和江は子供たちに聞かせてあげていましたね。ぼくも百万回生きられるのなら、百万回、和江と出会って、百万回、結婚したいです。
百万回結婚したら、百万回、祥子と玄太が生まれてくるのでしょうか。玄太が先に生まれて、祥子が妹になることだってあるかもしれませんね。それでもぼくは、百万回、この家族と一緒に暮らしたいのです。今度はもっといいお父さんになれそうな気がするな。
和江には「もうこりごり」って言われてしまうかもしれないけれど、もう一度、ぼくはみんなに会いたいのです。

だったらどうして!

今これを読んでいる和江はきっとそう思っていることでしょう。
どうしてかは、ぼくにも分からないのです。
だけども、どうしようもなく疲れてしまったのです。ぼくはもう朝日を見る元気をなくしてしまったのです。お月さまに誘われてしまったのです。
本当に、本当に、ゴメンなさい。
さようなら。
さようなら。


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