2012年7月7日土曜日

俺の名は勘九郎(91)

十二
ヨウザンでポールの突貫工事が始まった春先のある日、俺は山崎の会社へは行かず、渋谷の上空を飛んでいた。宮下公園の片隅の、木と木の間で何かが光っていた。黄色と黒のトラシマ模様のロープに、針金のハンガーがぶら下がっていた。そいつを狙って、俺は急降下した。ハンガーを集めて小枝の代わりにし、巣を作っている仲間もいるほどで、人間が使う道具の中には、俺たちの生活に都合のいい建材がときどきある。二本の木を結ぶ古いトラロープには、薄汚れたタオルの他に、しっかりとしたナイロン生地のスーツケースも吊るされていた。ロープにたるみがないところを見ると、ケースの中にスーツは入っていないのかもしれない。嘴でハンガーを咥えてはみたものの、俺は目下、巣を作る必要がない。地上からキラリと光ったハンガーに遊び心を誘われただけで、それを咥えて家に帰るつもりはなかった。
ハンガーをポイと捨てると、キャンと小さな犬の泣き声が聞こえた。落ちた針金が、仔犬の鼻先にぶつかったようだが、謝るのも面倒くさかったので、俺は黙ってその場を去ろうとした。
《痛いじゃないですか!》
意外なことに、そいつは俺に強い念を送ってきた。
《おっと、すまなかった》
《もう少し丁寧に謝ってもらいたいですね。子供だと思ってバカにしないで下さい》
キャンキャンと鳴きながらしゃべっている声は、まだ黄色く甲高いものだったが、気丈なヤツであることは間違いないらしい。


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2012年6月24日日曜日

俺の名は勘九郎(90)

「今回の件はね、俺も悪いんだよ。プロが一度引き受けたら、責任を持たなきゃいけないんだ。山崎さんを悪者にして、一週間納期を遅らせてくれ、なんて言うのはアマチュアのやることですよ」
きょとんとする山崎を見ながら、尾藤が続けた。
「このところ、だいぶ忙しくってね。永野さんに送った図面が帰ってきてないことに、一度は気づいたんです。承認図が戻ってこなければ、督促して返してもらわなきゃいけないんですよ。『お客さんが返してくれないから仕方がない。その分、納期を遅らせてもらおう』なんて発想じゃ、プロとは言えませんよ」
《やっぱ、尾藤さんはすげえや》
山崎はそう思ったが、口では別なことを言った。
「そう言って頂くと本当に助かりますが、私にできることがあったら、なんでも手伝わせて下さい」
「人手が足りなくなったら、応援にきてもうらおうか」
朗らかに笑いながら尾藤は言った。しかし、やがて本当に山崎の手まで借りる事態になるとは、思いもよらなかった。


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2012年6月4日月曜日

俺の名は勘九郎(89)

作業員の時間が余ってくると、やることがなくて工場内のペンキ塗りを始めるそうだ。《忙しいんだな》と思ったとき、山崎の胸は再び締め付けられた。山崎はカバンを胸に抱えて下を向いてしまった。
「情けない顔してないで、お掛けなさいよ」
いつの間に現れたのか、尾藤に声をかけられて山崎はハッと顔を上げた。
「どうも、すいませんでした!」
山崎は反射的に謝っていた。尾藤は黙ったままパイプ椅子に座り、山崎にも座れ、と手で促した。腕組みした尾藤が何もしゃべらないので、仕方なく山崎は、神田を連れてきた日のことを話した。お客さんである神田の方にばかり気をとられ、永野から預かった図面のことをすっかり忘れてしまったことを正直に告白した。それが言い訳にもならないことは山崎にも分かっていたが、それ以外に話すことがなかった。

「永野さんから承認図を預かったとき、めんどくせえなあって思わなかったかい?」
いくぶん、責めるような調子で尾藤が口を開いた。
「思いました」
「責任が持てないなら、断れよ」
静かで低い声だったが強い口調で言われて、山崎は面食らった。すまないと思いながらも、ヨウザンに仕事をもたらしたのは自分だという甘えがあったのだ。
「と言いたいところだけど、お客様を張り倒すわけにもいかないか」
一転して、尾藤の顔は穏やかになっていた。だが、山崎がホッとして緊張を緩めたのを見ると、尾藤はすぐに険しい顔に戻った。
「安心したら忘れてしまいますよ、山崎さん。誰だって、余計な事を頼まれれば、面倒くさいと思うものです。だけど、一度引き受けたら自分の責任でケリをつけるのがプロなんです。ついでに頼まれただけの仕事だとしてもね」
それから少しの間、尾藤は遠くを見ているようだったが、山崎は真剣な目で尾藤に頷き返した。
「4月28日までに届けると約束したのは俺だ。納期は守らせてもらいますよ」
「ありがとう御座います。私のせいで一週間もロスさせてしまいました。本当に申し訳ありません」

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2012年5月26日土曜日

俺の名は勘九郎(88)

「まずいぞ、これ。尾藤さんのことだから、一週間納期を延長しろって、言ってくるぜ」 永野の額に深いしわが寄っていた。永野は、工業高校を卒業して浅野ソーラーに入社し、浅野にも可愛がられていた社員だ。浅野が死んだ年の4月に課長になった永野は五十に近づいていたが、若い社員とも気さくに会話し、山崎のことも時々酒に誘ったりしていた。
「すぐに届けてきます!」
「そうしてくれ。手元にある図面で、作業を始めるように電話しておく。納期のことも頼んでおくけど、山崎も行って、よくお願いするんだ」
「はい!」
少し震えた声で、山崎は返事した。厚木の工場では、ソーラーパネルの生産がフル回転で進んでいた。なんとか、5月の初めにポールとの組み立てができるというところまで、生産が追いついてきた。しかし、ポールの搬入が遅れたのでは、工場の努力が水の泡となってしまう。
小田原についた山崎はタクシーに乗って、ヨウザンへと急いだ。正門の脇にある受付で、尾藤の居場所を尋ねると、山崎は工場の建屋を案内された。工場の中には鉄板で仕切られた小さな打合せスペースがあって、真ん中に作業台を兼ねたスチールの机があった。「そちらにかけてお待ち下さい」と言って、山崎を案内した社員は去って行ったが、山崎はカバンの取っ手を両手で握り、立ったまま尾藤を待った。 天井の下を走るクレーンから太いパイプがぶら下がり、大きな警報音が工場全体に響いていた。鉄板を切断するためのガスバーナーの轟音やグラインダーという名の機具を使って、鋼鉄を削る音もしていた。工場の歩行通路は緑色に塗られているのだが、そこにはいくつもの作業靴の跡が残っていて、ペイントしてからかなりの期間が過ぎていることを物語っていた。
「整理整頓が出来てない工場は問題外だが、ペンキの色がいつも鮮やかな工場ってのも困りもんなんだ」 山崎は、研修中に聞いた尾藤の言葉を思いだしていた。
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2012年5月12日土曜日

俺の名は勘九郎(87)

浅野ソーラーとヨウザンの契約交渉が決着したのは、翌年の2月で、ちょうど浅野の一周忌の頃だった。 結局、尾藤は1円の値引きもしなかった。杉本だけでなく、田中もそれを聞いて、苦々しく思ったが、ヨウザンより安い見積を出した業者は他に一社しかなかった。実績のないその業者に仕事を任せることは出来ないと判断した田中は、尾藤の言い値で契約することを杉本に認めた。 たっぷりとあったはずの納期にも危険信号が出ていた。 「納期は、契約後3カ月の約束ですから、5月の中旬になります」 尾藤は、そこでも正論を主張した。 「ばかな。それじゃあ、うちで組み立てる時間がない。連休前には、納めて下さい。うちは、連休返上でやっても、ぎりぎりだ」 杉本は今度こそ、強硬に主張した。価格交渉で突っ張り過ぎたかもしれないと感じていた尾藤は、杉本の机に広げた工程表の向きをかえ、しばらくそれを睨めていた。 「分かりました。4月の28日にお届けしましょう」 尾藤は、短縮できそうな工程を皮算用して、杉本にそう約束した。 >
カバンの中に眠らせてしまった図面を発見して、山崎は「やっべえ!」と思わず声を上げた。山崎の机と向かい合わせに座っていた女子社員が、どうしたの?と驚いた顔で尋ねたが、山崎は答える前に席を立っていた。技術課長の永野の所へ飛んで行った山崎は「すいません、承認図、返し忘れてました」と失態を告白した。 図面の承認というのは、発注者が、業者の作った図面を承認する行為で、業者は承認された図面の内容に従って製作を開始する。 F市の神田がヨウザンの工場を見たいというので、尾藤のところへ連れていく前の日のことだった。案内役の山崎は「承認図を尾藤さんに渡してくれ」と永野から頼まれていたのだが、ヨウザンの工場につくと、承認図のことをすっかり忘れてしまった。それから一週間が経って、山崎はようやくカバンのポケットにしまってあった図面に気がついた。 >
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俺の名は勘九郎(86)

尾藤と杉本が何度やりあっても、議論は平行線だったが、時間が立つほど、焦りだしたのは、杉本の方だった。ヨウザンの他にも、金額の妥結しない交渉をいくつも抱え、杉本は技術部に突き上げられだした。 「金は後で決める事にして、先に走らせてくれ」 社長の田中にまで頼まれて、仕方なく杉本はいくつかの業者に打診した。 「足りない分は次の仕事で返すから、まずはこの仕事を始めてくれないか」 そんな風にして、プロジェクトはスタートしたのだが、頑なにそれを拒んだのが、尾藤だった。 「仕事が終わってから『払えません』と言われたら、どうしようもないじゃありませんか」 尾藤の言うことは正論だった。しかし、時は徒に過ぎていく。杉本は田中に「エナジルの上野社長からヨウザンに圧力をかけてもらえないでしょうか?」と頼んだ。田中はなにも考えず、杉本が言った事を上野にお願いした。 「そんなくだらないことに俺を使うな!」 田中の頭にカミナリが落ちた。 「ヨウザンだかなんだかしらんが、そこを使いたいと言ってきたのはお前たちじゃないか。てめえらで何とかしろ!それとこの仕事、絶対赤字にするなよ」 田中は余計なことを頼みに来てしまったと後悔した。
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2012年4月14日土曜日

俺の名は勘九郎(85)

プロジェクトが始まってしばらくすると、あちらこちらで、悲鳴が上がった。見積時の予算が厳しすぎて、想定した値段では物が買えないというのだ。中でも深刻だったのは、パネルを構成する主要部品のソーラーセルだった。黒くて細長いセルは、シリコンで出来ている。太陽光発電にブームの兆しがあり、シリコンの値段がじりじりと上がり始めていた。セルを作るメーカーは、シリコンの値上がりを理由に、見積金額を下げようとはしなかった。何度もセルを購入している調達の担当者は、最初の見積を10%はカットできると言って、技術部の担当者に金額を伝えていた。その金額からさらに一律一割の削減があったので、見積金額の81%でプロジェクト予算が組まれてしまったことになる。81円で買えると踏んだものが、100円でしか買えなければ、プロジェクトは赤字を抱えてしまう。同じようなことがあちこちで起こっていた。
「初めに言ったように、一円もまけられない金額なんです。それを一割も下げろと言われたのでは、仕事を請けられません」
調達課長の杉本に呼ばれた尾藤は、頑として値段を下げようとはしなかった。

「それなら、他の業者を使うしかありませんな」
細いフレームの眼鏡の奥に、苦しい胸の内を隠して、杉本は冷静を装った。
「その値段で出来るところがあるなら、仕方ありません」
尾藤の態度はけっして不遜なものではなかったが、動じる様子もなく席を立ち、踵を返して杉本の前から去っていった。尾藤の大きな背中に意地の悪い視線を投げつける杉本を見て、山崎はひやひやしていた。杉本が他の業者を使うと言いださないだろうか。「ダメなものはダメ」ときっぱり言ったときの尾藤の顔を思い出し、それが裏目に出なければいいと考えながらも、山崎にできることは何もなかった。


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