2010年1月6日水曜日

俺の名は勘九郎(16)



キトさんが、ぼくの前から姿を消して、もう3カ月になる。ぼくたちは渋谷の宮下公園で毎日のように遊んでいた。宮下公園のフットサル広場の隣がぼくたちの遊び場だった。ある日、その公園に、一人の女の人がピンクのスーツケースを引きずりながら歩いてきた。屋根と柱だけの東屋のベンチに座り、ぼくたちをぼんやりと眺めていた女の人は、土ぼこりでよごれたコンクリートの上に、スーツケースをべったりと横置きにした。彼女はそこから、お菓子の箱をとり出した。ぺりぺりっと音をたて、箱を開けると、タケノコの形をしたチョコレート菓子を口に入れた。ぼくとキトさんは、その様子をじっと見つめた。すると彼女は、箱の中から二つの菓子を一度につまむと、それを自分の足元に置いた。つま先に穴のあきそうな色の褪せた茶色いスニーカーの近くまで寄って、キトさんは黙ってそれを食べた。
《心配ないから、コタローも食べなよ》
キトさんが言うので、ぼくも安心して口に入れた。
キトさんは、ぼくにとってマタギの師匠だ。キトさんと出会う前のぼくは、仲間うちのネコの言葉しか理解できなかった。キトさんが訓練してくれたおかげで、ぼくは人間が話す言葉を理解できるようになった。しかしぼくは、人間の心を読むことはできない。
《あんた変わってるよね》
《そうですか?》
《普通は、あけっぴろげな人間の心が読めるようになって、それからしゃべり言葉が分かるようになるもんだよ》
《でも、ぼくの場合、話してる言葉しか理解できないみたいなんです》
《マタギっていうのはさ、開いてる状態の心を読む能力なわけ。私も人間の話す言葉が理解できるようになったのは最近だよ。コタローってもしかして犬の鳴き声とかも理解してんの》
《ワンワン、としか聞こえません》
《じゃあ、人間の言葉だけ理解できるんだ》
《そうみたいです》
《人間の言葉なんて嘘ばっかりだからね。気をつけた方がいいよ》
《キトさんは、嘘なんかついたことないですよね》
《当たり前じゃない。あたしらは、心を開くか、閉じるかしかないんだから》
《でも、嘘の心を相手に送りこめる動物っているんですか?》
《さあね。あたしは会ったことないけど。ひょっとしたら、いるのかしら。考えたこともなかったわ》
《ぼくが理解しているつもりの人間の言葉も、みんな嘘なんですか?》
《すくなくとも、コタローに話しかけてるときは、嘘じゃないと思うよ。人間どうしで会話するときに、嘘が多いみたいだからね》
《でも、この前の無差別テロみたいなこともあるから、怖いですよね。人間て》
《そうね。あれは、誰かが死ぬのを面白がってるヤツの仕業だものね》


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