ハンから聞いたところによると、新設する街路灯に国の補助金がつく制度が始まったのは、浅野が死んで2カ月ほど経った4月のことだった。上野が画策しなくても、エコタイプのハイブリッド街路灯に補助金をつけることは、国も考えていたのだ。国が定めるエネルギー効率の基準は、それなりに厳しいもので、制度が始まったときに条件を満していたのは、ウィンディーサニーだけだった。すぐに、村上製作所の「ひまわり君」と鳥海ウィンドパワーの「ウォッチングバード」も、補助金対象商品として認定されたのだが、それ以降、国の基準を満足できる製品は現れなかった。
ハイブリッド型の街路灯を選んでも、旧来型の街路灯でも、自治体が負担する費用は一緒になったので、老朽化した街路灯の更新工事や新しい公園への新設工事が決まると、入札に呼ばれるのは、3社だけという状態になった。
結果的に、上野が目論んだ寡占の状態になっていたのだ。
上野の指示を受けた田中は、すぐに高校時代の友人だという村上製作所の設計部長に電話した。談合を持ちかけられた設計部長は驚いたが、「そういうことなら、営業に話してくれ。お前から連絡が行くことは伝えておくよ」と言って、田中に営業部長の個人的な連絡先を教えた。
ゴールデンウィークが明けてすぐの火曜日に、田中は村上製作所の営業部長を都心にあるホテルのロビーに呼び出した。夜のホテルで待ち合わせなどしたことのない田中は、そわそわとしながら、話の切り出し方を考えていた。
村上製作所の営業部長は千葉といって、大学時代、バスケットボールの選手としてインカレにも出場したことのある大柄な男だった。黒い髪が少しだけ残った白髪は短く刈り込まれ、ネギ坊主のような頭の下で、鋭い目が光っていた。
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2011年1月22日土曜日
2011年1月7日金曜日
俺の名は勘九郎(53)
《浅野は、何に対してもそうでした。家族旅行から帰ってくると、車のボンネットにそっと触れていました。お疲れさん、と心の中でねぎらっていたのです。一番のお気に入りはロレックスの腕時計だったのじゃないですかね。私は彼に嫉妬したことさえあります》
難儀だな、俺はそう思ったが、その念は閉じ込めておいた。人間との関係性が俺とハンとでは違うのだ。俺たちは人間に依存して生きていくことなどない。人間だって、カラスと共存したいとは思わないだろう。いつから俺たちは、こんなに悪者にされてしまったんだろう。昔は神の使いとして崇められたこともある。三本足のカラスがいて、そいつは「やたがらす」と呼ばれている。サッカー協会のマークに使われているあれだ。かわいい七つの子がいるカラスもいて、そいつは歌にも歌われていた。ちなみに、七つというのは7歳のことだ。歌の意味を知っている人間もほとんどいなくなってしまった。
《きっとまた、いい関係になれる日がきますよ》
いつのまにか俺の念を拾って、ハンが話しかけてきた。
《閉じていたつもりだがな》
《完全に閉じるというのは、全く何も考えないのと同じくらいに難しいものです》
《ハンは完璧にコントロールできているじゃないか》
《そんなことはありませんよ。ただ、浅野の気持ちを知りたくて、鍛えられた部分はありますね》
《片想いの恋みたいだな》
《片想い…。自分でもよく分からない感情です。私たちは、自分で子供をつくることはありませんから、生きものとは違った感情があるのかもしれませんね》
ハンの気持ちを理解するのは、俺には難しいようだ。
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難儀だな、俺はそう思ったが、その念は閉じ込めておいた。人間との関係性が俺とハンとでは違うのだ。俺たちは人間に依存して生きていくことなどない。人間だって、カラスと共存したいとは思わないだろう。いつから俺たちは、こんなに悪者にされてしまったんだろう。昔は神の使いとして崇められたこともある。三本足のカラスがいて、そいつは「やたがらす」と呼ばれている。サッカー協会のマークに使われているあれだ。かわいい七つの子がいるカラスもいて、そいつは歌にも歌われていた。ちなみに、七つというのは7歳のことだ。歌の意味を知っている人間もほとんどいなくなってしまった。
《きっとまた、いい関係になれる日がきますよ》
いつのまにか俺の念を拾って、ハンが話しかけてきた。
《閉じていたつもりだがな》
《完全に閉じるというのは、全く何も考えないのと同じくらいに難しいものです》
《ハンは完璧にコントロールできているじゃないか》
《そんなことはありませんよ。ただ、浅野の気持ちを知りたくて、鍛えられた部分はありますね》
《片想いの恋みたいだな》
《片想い…。自分でもよく分からない感情です。私たちは、自分で子供をつくることはありませんから、生きものとは違った感情があるのかもしれませんね》
ハンの気持ちを理解するのは、俺には難しいようだ。
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2010年12月24日金曜日
俺の名は勘九郎(52)
社長になった田中はコスト意識の強い技術屋で、原価低減に熱心ではあったが、財務にはうとく、経営者的な思考をしたこともなかった。浅野ソーラーの経営方針は、上野のひと言で決まり、それを田中に伝えるのも猪俣の役目だった。社長を補佐せよ、と言われた蔵島に猪俣が仕事の報告することはなく、蔵島はいわば窓際に置かれた存在になってしまった。
ハンは知り得た情報のすべてを俺に教えてくれた。昔のことや上野や猪俣の考えていたことまで、一生懸命俺に語った。
《どうしてそんなにも浅野に肩入れするんだね。たまたまハンを使うことになった人間というだけじゃないか》
俺には、人間をご主人と思うような気持ちは全くなかったので、あるとき、ハンに聞いてみた。
《人間を嫌う気持ちも分かりますよ。私の体はかつて地下に眠る油でした。人間は、地球に何千メートルもの穴をあけて、地上に私を引っ張りだし、なんども機械に通して私をこの体にしたのです。壊れてしまえばポイと捨て、エコだといって、今度はペットボトルにでもするんでしょう。そのくせ、石油を燃やすと地球が暑くなるとか言ってさわいでる》
《究極のエコは、人間が地球からいなくなってくれることだな》
《そういうことです。だけど、人間がいなければ、いまの私は生まれていないのも事実なのです。地下に眠る油のままだったら、勘九郎さんと話をすることもできなかったでしょう》
《人間が新しい命を創造したとでも言うのか》
《いいえ、命は素粒子にだってあるのですから。ただ、今の私は今の命を生きています。すべてのものが流転するなかで、私の命をいとおしんでくれたのが、浅野だったのです》
《物に愛着を持つタイプの人間も中にはいるな》
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ハンは知り得た情報のすべてを俺に教えてくれた。昔のことや上野や猪俣の考えていたことまで、一生懸命俺に語った。
《どうしてそんなにも浅野に肩入れするんだね。たまたまハンを使うことになった人間というだけじゃないか》
俺には、人間をご主人と思うような気持ちは全くなかったので、あるとき、ハンに聞いてみた。
《人間を嫌う気持ちも分かりますよ。私の体はかつて地下に眠る油でした。人間は、地球に何千メートルもの穴をあけて、地上に私を引っ張りだし、なんども機械に通して私をこの体にしたのです。壊れてしまえばポイと捨て、エコだといって、今度はペットボトルにでもするんでしょう。そのくせ、石油を燃やすと地球が暑くなるとか言ってさわいでる》
《究極のエコは、人間が地球からいなくなってくれることだな》
《そういうことです。だけど、人間がいなければ、いまの私は生まれていないのも事実なのです。地下に眠る油のままだったら、勘九郎さんと話をすることもできなかったでしょう》
《人間が新しい命を創造したとでも言うのか》
《いいえ、命は素粒子にだってあるのですから。ただ、今の私は今の命を生きています。すべてのものが流転するなかで、私の命をいとおしんでくれたのが、浅野だったのです》
《物に愛着を持つタイプの人間も中にはいるな》
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2010年12月12日日曜日
俺の名は勘九郎(51)
ハンが蔵島の所へ行ってからも、俺は山崎の家の鳥かごをネグラにしていた。たまにくれる厚揚げはうまかったし、アホの山崎ウォッチングは、それなりの暇をつぶしになった。そして俺は、山崎と同じように、毎朝徳原ビルへ通うようになった。ビルの前の大通りには、高い欅の木が等間隔に並んでいて、そのうちの一本は、山崎たちのいる営業部を眺めるのにちょうどいい場所にあった。
俺だって一日中山崎ウォッチングをするほど暇じゃあない。毎日そこへ通うようになったのは、ハンと話をするためだ。浅野と同じように蔵島は、ハンを常に持ち歩くようになった。浅野が死んだ2月からのことを、胸のポケットからハンは詳しく調べた。人間の意思を拾うだけでなく、パソコンや机などがもつ記憶にさえ、ハンは働きかけた。相手に自意識がなくても、ハンは対象の物体から記憶を引き出すことができた。
浅野の後を継いで社長になったのは、副社長の蔵島ではなく、専務だった田中だ。蔵島は副社長のままだったが、5月になると、営業部長の任務も外され、新社長の田中を補佐しろと、上野から指示された。新しく営業部長になったのは、徳原建設からやってきた猪俣という男で、かつて上野の腹心と言われていた人物だ。小太りで猫背ぎみの猪俣は商業高校の出身で、上野の強い引きがなければ、学歴偏重の徳原建設にあって部長格にまで出世することはなかっただろうと言われていた。猪俣は、業界調整のプロフェッショナルで、猪俣が「取れます」と言った仕事は必ず受注できたし、「今回は取れません」と言えばその仕事はとれないのだった。上野は、猪俣の言葉を黙って聞くだけだったから、たとえ猪俣が逮捕されても、談合の存在をしらない、と言い張ることもできた。それは徳原建設の暗黙のルールであって、かつて上野が談合の調整役をしていたときも、上司に細かな報告などしたことがなかった。いや、してはいけなかったのだ。上司からは「取れるのか、取れないのか?」とだけ聞かれた。上野が「取れます」と答えれば、設計や購買は必死になって動いたし、「取れません」と言えば、その仕事は存在しないのと同じだった。上野が役員になり、談合の現場を離れたとき、後任に選ばれたのが猪俣だった。業界の仲間に猪俣を紹介して、「水曜会」という名のその会から去ることを上野が伝えると、他社のメンバーは「おめでとうございます」言って上野を送りだした。各社の利益を代表する調整役たちの結束は強く“仲間”が役員に昇格するのは慶事だったのだ。
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俺だって一日中山崎ウォッチングをするほど暇じゃあない。毎日そこへ通うようになったのは、ハンと話をするためだ。浅野と同じように蔵島は、ハンを常に持ち歩くようになった。浅野が死んだ2月からのことを、胸のポケットからハンは詳しく調べた。人間の意思を拾うだけでなく、パソコンや机などがもつ記憶にさえ、ハンは働きかけた。相手に自意識がなくても、ハンは対象の物体から記憶を引き出すことができた。
浅野の後を継いで社長になったのは、副社長の蔵島ではなく、専務だった田中だ。蔵島は副社長のままだったが、5月になると、営業部長の任務も外され、新社長の田中を補佐しろと、上野から指示された。新しく営業部長になったのは、徳原建設からやってきた猪俣という男で、かつて上野の腹心と言われていた人物だ。小太りで猫背ぎみの猪俣は商業高校の出身で、上野の強い引きがなければ、学歴偏重の徳原建設にあって部長格にまで出世することはなかっただろうと言われていた。猪俣は、業界調整のプロフェッショナルで、猪俣が「取れます」と言った仕事は必ず受注できたし、「今回は取れません」と言えばその仕事はとれないのだった。上野は、猪俣の言葉を黙って聞くだけだったから、たとえ猪俣が逮捕されても、談合の存在をしらない、と言い張ることもできた。それは徳原建設の暗黙のルールであって、かつて上野が談合の調整役をしていたときも、上司に細かな報告などしたことがなかった。いや、してはいけなかったのだ。上司からは「取れるのか、取れないのか?」とだけ聞かれた。上野が「取れます」と答えれば、設計や購買は必死になって動いたし、「取れません」と言えば、その仕事は存在しないのと同じだった。上野が役員になり、談合の現場を離れたとき、後任に選ばれたのが猪俣だった。業界の仲間に猪俣を紹介して、「水曜会」という名のその会から去ることを上野が伝えると、他社のメンバーは「おめでとうございます」言って上野を送りだした。各社の利益を代表する調整役たちの結束は強く“仲間”が役員に昇格するのは慶事だったのだ。
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2010年11月28日日曜日
俺の名は勘九郎(50)
ハンと俺が話しをしていると、蔵島が山崎の方に向かって歩いてきた。ハンが先にそのことに気づいて、強力に自己の存在を主張し始めた。俺もあわてて蔵島に念を送った。
《気づいてくれ!》
俺たちが念じる前から、蔵島はハンのことが気になっていたようだ。
「それ、浅野さんが使ってた万年筆じゃない?」
「そうっすよ。お通夜のときに社長のお子さんから貰ったんです」
「女の子?」
「いえ、息子さんでした。『これは、会社の人に』って泣きながら言うんで預かってきました」
「悪いけど、ぼくが預かっていいかな。それ、浅野さんが会社をつくった日に買ったペンなんだ」
「いいっすよ。てゆうか、万年筆って使いずらいっすね」
椅子から立ち上がって、山崎は蔵島にハンを渡した。ようやく収まるべきところに収まったハンは、ふうーっ、と大きく息をした。
《やっと落ち着きました。でもこれがスタートです》
キャップのフックが陽光に反射してきらりと光り、それはまるでハンの目が鋭く輝いたかのようだった。
「社長はねえ、会社を興した日から、ずうっとこのペンを使っていたんだ。どんなに小さな仕事でも、契約書にサインするときは必ずこのペンだった。ワープロやゴム印を使わずにね。ぼくの名前で決裁した案件は、営業部長の印で済ませているけど、社長決裁の案件は、今だって必ず自分でサインしているよ」
「そんな大事なものだったんですか? 放りっぱなしにしてすみません」
「山ちゃんたちの世代にしたら、万年筆なんて面倒くさいだけのペンなんだろうね」
「正直、ボールペンの方が使いやすいです」
「インクの文字が涙でにじむ、なんて良さがあるんだけどなあ。時代かな。ぼくも最近はほとんど使ってなかったな」
「でも、雰囲気はありますよね。なんか想いが込められてそうっていうか」
「今日から、このペンを使わせてもらうよ。浅野ソーラーが昔の浅野ソーラーに戻る日まではね」
「戻る日?」
「うん、それが出来たらこのペンは、社長の奥さんに返そうと思うんだ」
どうやら、ハンの強い念が、蔵島の心に響いているようだった。
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《気づいてくれ!》
俺たちが念じる前から、蔵島はハンのことが気になっていたようだ。
「それ、浅野さんが使ってた万年筆じゃない?」
「そうっすよ。お通夜のときに社長のお子さんから貰ったんです」
「女の子?」
「いえ、息子さんでした。『これは、会社の人に』って泣きながら言うんで預かってきました」
「悪いけど、ぼくが預かっていいかな。それ、浅野さんが会社をつくった日に買ったペンなんだ」
「いいっすよ。てゆうか、万年筆って使いずらいっすね」
椅子から立ち上がって、山崎は蔵島にハンを渡した。ようやく収まるべきところに収まったハンは、ふうーっ、と大きく息をした。
《やっと落ち着きました。でもこれがスタートです》
キャップのフックが陽光に反射してきらりと光り、それはまるでハンの目が鋭く輝いたかのようだった。
「社長はねえ、会社を興した日から、ずうっとこのペンを使っていたんだ。どんなに小さな仕事でも、契約書にサインするときは必ずこのペンだった。ワープロやゴム印を使わずにね。ぼくの名前で決裁した案件は、営業部長の印で済ませているけど、社長決裁の案件は、今だって必ず自分でサインしているよ」
「そんな大事なものだったんですか? 放りっぱなしにしてすみません」
「山ちゃんたちの世代にしたら、万年筆なんて面倒くさいだけのペンなんだろうね」
「正直、ボールペンの方が使いやすいです」
「インクの文字が涙でにじむ、なんて良さがあるんだけどなあ。時代かな。ぼくも最近はほとんど使ってなかったな」
「でも、雰囲気はありますよね。なんか想いが込められてそうっていうか」
「今日から、このペンを使わせてもらうよ。浅野ソーラーが昔の浅野ソーラーに戻る日まではね」
「戻る日?」
「うん、それが出来たらこのペンは、社長の奥さんに返そうと思うんだ」
どうやら、ハンの強い念が、蔵島の心に響いているようだった。
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2010年11月20日土曜日
俺の名は勘九郎(49)
俺が山崎と初めてあったのは、浅野が死んだ年の6月のことで、新橋にある会社まで山崎を追いかけたのは、ハンをなんとか蔵島のもとに帰してやりたいと思ったからだ。ハンと違って俺は自由に飛ぶことができるが、山崎のカバンからハンを取り出し、蔵島の前に落としてやるチャンスはありそうもなかった。
机の奥でほこりをかぶっていたハンを山崎が会社まで持って行ったのは、朝から蝉の鳴き声がうるさい夏の終わりのことだった。会社についた山崎は、鞄のポケットからハンを取り出すと、机の奥から裏紙をとって、「山崎浩介」と書いてみた。濃紺のインクでしたためられた文字は意外に達筆で、俺は多少感心もしたのだが、山崎は自分で書いた文字を眺めながら、ハンをくるりと指先で回転させた。ペンの先から飛んだインクが、青いワイシャツに小さないシミを作った。山崎は、ツェっと舌打ちしただけだが、俺はアっと叫んでしまった。ハンが指から落ちてペン先が潰れたら、ハンの万年筆としての機能は死んでしまう。山崎はそれまで、万年筆を使ったことがなかったのだ。ペン先を下に向けて山崎は何度かハンをノック式のシャーペンように振ってみたが、そのときはインクが漏れることはなかった。ペン先をよく見た山崎は、万年筆の構造を理解したのだが《使いづらいペンだなあ》と不満に思った。
手紙の一枚も書いてみれば、万年筆がつくる文字の趣が分かるのだが、と俺が思うと、
《今の若い人には無理かもしれませんね。メールの時代ですから》
とハンが念を送ってきた。
《ハンの仲間は、なかなか生まれてこないってわけかい?》
《ええ、もうずうっと減りっぱなしですよ。インクのカートリッジを替える必要があったり、たまにインク漏れしたりするのが嫌われるんでしょうね。もっとも、最近はインクを漏らしてしまうことなんてありませんよ。さっきみたいに、鉛筆のようにまわされることは想定外でしたけどね》
《壊されやしないかとドキドキしたよ》
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机の奥でほこりをかぶっていたハンを山崎が会社まで持って行ったのは、朝から蝉の鳴き声がうるさい夏の終わりのことだった。会社についた山崎は、鞄のポケットからハンを取り出すと、机の奥から裏紙をとって、「山崎浩介」と書いてみた。濃紺のインクでしたためられた文字は意外に達筆で、俺は多少感心もしたのだが、山崎は自分で書いた文字を眺めながら、ハンをくるりと指先で回転させた。ペンの先から飛んだインクが、青いワイシャツに小さないシミを作った。山崎は、ツェっと舌打ちしただけだが、俺はアっと叫んでしまった。ハンが指から落ちてペン先が潰れたら、ハンの万年筆としての機能は死んでしまう。山崎はそれまで、万年筆を使ったことがなかったのだ。ペン先を下に向けて山崎は何度かハンをノック式のシャーペンように振ってみたが、そのときはインクが漏れることはなかった。ペン先をよく見た山崎は、万年筆の構造を理解したのだが《使いづらいペンだなあ》と不満に思った。
手紙の一枚も書いてみれば、万年筆がつくる文字の趣が分かるのだが、と俺が思うと、
《今の若い人には無理かもしれませんね。メールの時代ですから》
とハンが念を送ってきた。
《ハンの仲間は、なかなか生まれてこないってわけかい?》
《ええ、もうずうっと減りっぱなしですよ。インクのカートリッジを替える必要があったり、たまにインク漏れしたりするのが嫌われるんでしょうね。もっとも、最近はインクを漏らしてしまうことなんてありませんよ。さっきみたいに、鉛筆のようにまわされることは想定外でしたけどね》
《壊されやしないかとドキドキしたよ》
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2010年11月7日日曜日
俺の名は勘九郎(48)
やがてウィンディーサニーを含めた太陽光や風力を利用するタイプの街路灯に補助金がつくことにはなったのですが、工場見学の一見以来、上野と浅野の関係は決定的なものになっていました。上野は浅野のやることにいちいち文句をつけ、ことあるごとに5階のフロアまで降りてきて、社員たちが見ている前で浅野を怒鳴りつけたのです。
「わざわざ、ここで言うことないのにね」
同情する女子社員の声が聞こえたとき、浅野はいっそう屈辱を感じました。
年が明け、正月休みが終わりに近づくと、浅野は憂うつ感が増してくるのを感じました。
そして出勤の朝、浅野はトイレに座ると、ズボンとパンツをおろした格好のまま動けなくなってしまいました。
《俺が、俺の作った会社に行きたくなくなってしまうなんて》
そう考えた浅野は絶望的な気持ちになりました。それでも何とか立ち上がり、水を流そうとして、ふと便器の中を覗いてみました。よく磨かれたパールホワイトの便器の中に、鉛筆よりも細い便が、とぐろを巻くこともできずに沈んでいました。ミミズのような赤黒い排泄物を見た浅野は、会社ではなく病院に行くことを決めたのです。
ストレスからくる胃潰瘍と軽いうつ症状と診断された浅野は、結局3週間も会社を休んでしまいました。入院中、不眠を訴えた浅野は医者から睡眠薬を処方されました。消灯時間の少し前に、毎晩一錠ずつ渡されるその薬を、浅野は一度も飲みませんでした。プラスチック製のメガネケースに浅野が睡眠薬を隠していることに、医師も看護師も気づきませんでした。私は、目の前を通過していくすべての人間たちに薬のことを訴え続けました。しかし、誰かが私の念を感じとることはありませんでした。
そうして、あの、月の冴えた2月の夜を迎えてしまったのです。
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「わざわざ、ここで言うことないのにね」
同情する女子社員の声が聞こえたとき、浅野はいっそう屈辱を感じました。
年が明け、正月休みが終わりに近づくと、浅野は憂うつ感が増してくるのを感じました。
そして出勤の朝、浅野はトイレに座ると、ズボンとパンツをおろした格好のまま動けなくなってしまいました。
《俺が、俺の作った会社に行きたくなくなってしまうなんて》
そう考えた浅野は絶望的な気持ちになりました。それでも何とか立ち上がり、水を流そうとして、ふと便器の中を覗いてみました。よく磨かれたパールホワイトの便器の中に、鉛筆よりも細い便が、とぐろを巻くこともできずに沈んでいました。ミミズのような赤黒い排泄物を見た浅野は、会社ではなく病院に行くことを決めたのです。
ストレスからくる胃潰瘍と軽いうつ症状と診断された浅野は、結局3週間も会社を休んでしまいました。入院中、不眠を訴えた浅野は医者から睡眠薬を処方されました。消灯時間の少し前に、毎晩一錠ずつ渡されるその薬を、浅野は一度も飲みませんでした。プラスチック製のメガネケースに浅野が睡眠薬を隠していることに、医師も看護師も気づきませんでした。私は、目の前を通過していくすべての人間たちに薬のことを訴え続けました。しかし、誰かが私の念を感じとることはありませんでした。
そうして、あの、月の冴えた2月の夜を迎えてしまったのです。
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