2009年4月2日木曜日

迷宮入り?

阿刀田 高 氏の短編小説 『修善寺にて』(文藝春秋 ・ 『ストーリーの迷宮』に収録)を読みました。
この短編の主人公である「わたし」は、志賀直哉の『城の崎にて』を読んで疑問を抱きます。
『城の崎にて』は、山手線事故で九死に一生を得た志賀直哉が、温泉養生に行ったときに目撃した内容から生まれた小説です。城崎で志賀は、蜂の死体を見たあとに川で溺れる鼠を目撃します。そして、少し自分と離れたところにいたイモリを脅かしてやろうと石を投げると、命中して死んでしまった。そこに着想を得た志賀は、小説の中で死生観を語ります。
『修善寺にて』の主人公は、「ハチ → ネズミ → イモリの死が偶然に続くなんて、志賀先生、話を作っていますね。」と疑います。ほんとに見たんですか?がキーとなって物語は続きます。

そして最近読んだコラムを思い出しました。それは道ばたでお金を拾った経験について、筆者が心情をつづったコラムです。概要は、
・コラムの筆者は2度お金を拾った経験がある。
・50万円が入っているバッグを拾ったときは、もちろんすぐに交番に届けた。後日、落とし主のすし店主から「仕入のお金で、なくしたら大変なところでした」とお礼の電話があった。
・2度目は、2千円札を一枚拾った。面倒臭いという思いが先にたって、届けるべきか悩んだ。
純粋な道徳的観念よりも、ネコババしてもろくなことにならないという小市民的悲観が心の中にあった。 この「2千円問題」をはやく解決してしまおうと思って、交番へ急いだ。
というものです。

このコラムを読んだとき、いろいろなことを考えました。
ぼくは1000円札を拾って届けなかったことがあります。忙しいときに拾ってしまい、交番に届ける時間がありませんでした。「拾わなきゃよかったなー、めんどくさい」と思いつつも、こんどその場所に行ったときに交番に届けようという意思がありました。やがて、お金を拾ったことを忘れてしまいました。もう何年も前の経験です。が、結果的にネコババになっちゃったなーという嫌な思いが残り、ときどきチクっと痛みのようなものを感じます。ちょうど、前述のようなコラムを読んだときなど。
ネコババは、刑法254条の遺失物横領の罪にあたります。刑法の罪には原則として「故意」が必要です。拾ったときは届けるつもりだったので、その時は「故意」ではありません。長い時間が経過して、「いまさら届けても仕方ない。」と思ったとき、そこで罪として成立するはずです。たぶん。
たとえば10年前にお金を拾って、「後で届けようと思ったけどそのままになってしまったなあ」と、昨日読んだコラムで思し出したという場合はどうなるのだろう?
刑法なので公訴時効があるけれど、基準となる時期は拾ったときなのか、届ける意思を捨てたときなのか?
などと長考してしまいました。

そこへ『修善寺にて』の物語です。
「50万円もの大金を拾った経験のある人が、次に2千円札を拾った。自分の心の『2千円問題 』にけりをつけるために交番に急いだ」
出来すぎてるなー。作った話だとしたら、ずいぶんと 罪 つくり。

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